批評 -critics-


ヒンマン・チェン――アート評論家

このポストモダ―ンな現代にあって、幸子はアートの歴史に新風を吹き込もうとはしない。彼女にとってアートは自分自身の延長であり、日々の出来事なのだ。古代に人々が疲れも知らず家や町をつくったように、彼女はこの地球に彼女自身の世界を確立するために奔走する。

明らかにアジア的観点から言えば、世界は自然からそして自然と共につくられるのである。古居の作品には雨や風や花や移り行く季節などの繊細な美がある。「私の作品が風に吹かれたり雨に濡れたらいいと思う時があります」と彼女は言う。無地布に描かれたアクリル画が本物の木の枝にぶらさがっているインスタレーションもある。もっと深いところでは、彼女の作品は人生の思い出のひととき――花の香りを吸う瞬間、面白いものをみて微笑む瞬間、人の誕生、成長、そして死―――などを語る。大変やさしくそして同時に力強く、彼女はつかの間の美と永続する自然を対極に起き人間の弱さと強さをを描く。

人間愛からだろうか彼女は自分自身はもっと力あるものへの媒体にすぎないとさえ言う。「色は私の意思を越えています。私は色の声を聴き、その意思を表現しようと試みます。まず、こうやって真っ白な白い布に最初の一滴を落とすでしょう。すぐ次ぎの瞬間に布の上の色は私のコントロールから離れ神秘的な動きをします。私はそれを眺めて続行するだけです。こうして絵を描いています。」

幸子の言葉は色の言葉そのものであるのは確かである。空気のような希薄な色から強力に吹きつけられまたふき取られた色に至るまで、アーチストは喜びをもって私達を満たしてくれる。そして彼女は信頼と楽しみでもって絵を描きながら、自然現象の神秘やさらには人間の情緒の神秘を賞賛している。




エリザベス・ロス ― アート・ジャーナリスト

古居幸子のボストンへの愛は彼女の目が届く限り広がって行く。当地ボストンに住み始めて以来、彼女はその青い空を愛でる。

古居は日本の工業都市である大阪生まれである。そこでは空は灰色がちであり、ここ歴史の町ボストンへの住移動は彼女にとって心地よい変化に違いない。彼女の当地でのアートへのきっかけとなったのはこの町のきらめきであり嬉しいほどの青い空なのである。アメリカに17年間住んだ今、古居は日本を視点においたアメリカにおける現代アーチストとして確固とした評を築いてきた。シンプルで抽象的なスタイルと明るい色合いをもって古居は想像や人間的な経験についてのイメージを作り出す。

古居の一番新しい個展はケンブリッジのステビンズギャラリーである。木版もあれば抽象画も見られる。そして木綿の着物地の上に手描きした作品のインスタレーションもある。このショーのハイライトは古居のアメリカ百景ではないだろうか。これは江戸時代の浮世絵アーチスト安藤広重(1797―1858)にちなんだ発想のものでもある。

最近の作品

彼女の最初の木版はボストンのオールド・ノース・チャーチである。それ以来現在までニューイングランドの各州、デラウエアー州、オハイオ州、ペンシルバニア州、カリフォルニア州などほぼ30以上の作品が出来あがっている。現在手がけているのは9月11日のテロ攻撃の前と後をテーマにしたニューヨーク市やフロリダ州やカリフォルニア州の砂漠地帯などである。

古居は1985年にアメリカに来る前、10年ほど日本のみならず、アメリカやフランスや韓国などでも活躍している。彼女は子供の頃すでに小学校6年生の時にはアーチストになりたかったという。「その後、アーチストは食べて行けないと思いました」と彼女は微笑みながら回顧する。父親の跡継ぎをするべく会計学を学ぶが、その後にアートが本当の彼女の心の叫びと気づきアートに転向する。今はアートの仕事に加え古居はボストン近郊で
日本語を教えたりもする。

アメリカに来る前彼女はパリにも住みスタジオを借りて絵を描いてもいる。その少し前1981年にはフィナーレ・国際アートショーで2位を得、パリ市美術館や東京国際美術館でもショーをしている。「パリは私の大好きな町です。恋するパリというタイトルの特別に大きな抽象画もあります」と彼女は言う。

ついで1985年には、アメリカの現代アーチストのヘレン・フランケン・サーラーにひかれて、古居はアメリカに来ることになる。「彼女は50年代のヒットです。彼女の抽象画が大好き!」と古居は言う。

アメリカ百景

古居のアメリカ百景の作品の数々にはそれぞれ思い入れがある。ニューハンプシャー州のポーツマスは明るい月の下に抽象的なデザインの船が浮かぶ。「ボートはその時、互いに話しているように私には思えました。昼間ボートはそれぞれ忙しいでしょう。夜リラックスして、お互いに今日会ったことを話し合っています。ボートって話す事ができるのです。」と彼女は言う。

信仰があるわけではないが、古居は日本の神道に思いが行くという。「神道では何もかもに神が存在します。つまり世界中の森羅万象すべてを尊敬しなければいけないのです。」とも彼女は言う。古居の作品の中の、ボートのように生物でないものにも彼女は尊敬を感じると言う。「私達はここにこうしているのです。尊敬するために。」クリーブランドのリトル・イタリ―の木版画に目を移そう。彼女はそこで車、建物、明るいピンクの空などが生きているように見えたと言う。「私がこのパン屋さんの前にいましたら雨が降ってきました。そこで、パンは買わないけれどもお店の中からドローイングをしてもいいですかと、パン屋さんに聞いて許可をもらってそこで絵を描きました。すると雨がさあーっと上がってピンク色の空が広がりパンを焼く匂いとピンクの空が全く同じに重なったのです。とても美しいものを見ました。」ペンシルバニアのアーミッシュの村に行った時は、農家の納屋や家に印象深いものを感じたが、「馬や馬車に乗る子供達を見ました。その隣にアーミッシュでない私達の車が走っていました。そういう暮らしぶりを見ると私は写生ができなくなりました。彼らのいル場所の写真をとるのは尊敬に反するような気がしました。それでアーミッシュ村の風景画ができあがりました。人はいません。」

古居はアートに加えて音楽家でもある。余暇に日本の伝統的な楽器である琴を弾く。琴は細長いハープのような形の楽器でそれを床において引く。今、古居は日本人の音楽家でバークレーの阿部恒憲氏と組んで、古居のアメリカ百景に1作ずつ曲をつける共同作業も進行中である。






Sachiko Furui
March 29-April 23, 1988

Unlike her contemporaries in this “post-modern” era, Saclike Furui is not anxious to dredge the entire history of art in order to create new styles. For her, art is very much an extension of the Self, and it is a matter of daily life. Just like the ancients who tirelessly laid out their first houses and city plans on the walls and everything around her, in order to establish her own world on earth.

In a distinctly Oriental manner, this “world” is created from Nature and with Nature. Furui’s work captures the delicate beauty of rain and wind, blossoming flower and changing seasons. “I wish my paintings would be blown around by the wind and soaked by the rain.” She muses, looking at her watery acrylic paintings on fabric draped on tree branches. At a deeper level, her work also speaks of the memorable moments of life : inhaling fragrance, smiling at something comical, giving birth, growing up and dying ….  Very gently and convincingly, the artist draws a parallel between the fragility and strength of human life with the fleeting beauty and enduring power of Nature.

With great humility, she also insists that she is only a vehicle of something more powerful : “Color is going to do something beyond my will. I listen for the voice of the color and try to express its will. I first drop a color on the pure white cloth. In a moment, the pigment on the cloth gets off my control and is carried away by a mysterious emotion. I keep watching what is happening, then I go on with it. This is the way of my painting.”

Definitely, color is Saclike Furui’s language of expression. From the ethereal color-field pieces, to the strongly wiped and brushed works on paper, the artist indulges us with existential delight. With much confidence and joy, she creates art which celebrates the mystery of natural phenomena and the mystery of human emotions.

( Hingman Chan / critics)